気分の沈みよりも気分の浮き沈みのほうがある。安定を捨てて自ら不安定な生活へと突き進もうとしているからか、できごと一つひとつに一喜一憂している。 塾をやろうとしていることが生徒にも知れ始めた。周りの人間から見た自分の像がこれまでの形を失ってボロボロと崩れ、姿を変えていく。それと一緒になんだか足元もがらがら崩れていく気がする。

月曜はビッグアイの武道場で県内企業による高校生向けの合同説明会があって、引率としてひょこひょこついて行った。駐車場から会場までの道中で、2人組の生徒に話しかけられ、何やかんや話した。 「先生塾やるん?」 うん、やるよ 「一人でやるん?」 うーん、二人やな 「相手男の人?」 うーん、男やな 「身長は?」 ん、身長?え相手の?うーん、私よりちょっと低いかな。 「ふーん、かっこいい?」 うん、かっこいいかっこいい。 「なら通うわ」 そんな基準かい。

常々考えているのは、子どもに「変な大人のサンプル」を見せたいということだ。意識的にやるのは少々傲慢なのだけど、それでもやりたい。「変な大人もいたもんだなあ」「こんな人でも行きていけるんだなあ」と思わせたいし思われたい。それは自分を奮起するための対内的な建前であったりもする。
私は中学以来、まわりに変人と呼ばれてきたし自分でもそう思ってきた。その立ち位置に居所とアイデンティティを確保してきたのだけど、それは大枠で褒められるような所属先があってこそ機能した逸脱だった。反転したエリート主義だったのだ。しかし今や、進学校や旧帝大といった枠組みは私を守ってくれない。その環境においてなお、私は変人を貫き通せるだろうか?