妻が小麦に弱い(アレルギーではないが胃腸との相性が悪いらしい)ので普段あまり小麦を使わない。今日は油琳鶏を作るのに少量の薄力粉が必要だったので、その辺の粉を保管している冷蔵庫の野菜室を開けたら米粉もあった。せっかくなので米粉を使う。薄力粉も強力粉もちらりと見えた。パンを焼きたい。
私の生活から丁寧な暮らしという文脈が分離したのはおそらく働き始めてからだ。今でも他人から見れば私は「丁寧に」暮らしているように見えるかもしれない。田んぼの中の古い一軒家(実家でもない)に住んで、昆布やいりこでだしをとって料理を手作りし、お茶も急須で淹れ、ドレッシングも都度手作りする。丁寧に暮らすことが、かつては目的だった。手段ではなかった。しかし仕事を始めて生活にある程度の時間的制約が生じたことで、スタイルではなくメソッドが残った。田舎に住めば夜でもドラムの練習ができる。乾物でとる出汁はうまいし、冬は鍋で湯を沸かして部屋を加湿する口実にもなる。ドレッシングは自分で作れば塩分摂取量をコントロールできるし、酢を多めに入れて大量に摂取できる。実用性が問題になってきたのだ。
しかし今でもたまに、Casa Brutusなんかを書店でめくると、目的としての丁寧な暮らしを欲望する自分を再発見するパンを焼きたくなるヨーロッパの農村部で伝統的に焼かれてきた素朴なパン、などという文言に弱い。方法へのあこがれが絶えることはないのだ。
たぶん私は「ライフスタイルのインストール」が大好きなのだな。スマホのホーム画面を着せ替えるのと同じ感覚で、「伝統や特定の理念に基づいた生活様式の体系」を自分に取り入れることへの執着が強い。いや、執着と呼ぶのも違う。子どもがおもちゃを欲しがるのと同じかもしれない。