生徒が掃除をしない。やるよ、と声をかけても掃除道具を持たない。 人命救助のときには、「あなたは救急車を呼んで!あなたはAEDを持ってきて!」と特定の人を指して依頼すべきだと、救急救命講習で教わった。明確に役割が与えられることで実行可能性が高まるのではないかと考え、「今日はあなたはハタキ、あなたは雑巾、あなたはホウキ、あなたは熊手」と道具を指定して依頼する、時には手渡すようにしてきた。大抵、その段階でも生徒は渋る。嫌々道具を受け取って、一応歩き始める。 しかし、道具を持ったまま談笑を始めたり、遊び始めたりする。談笑や遊びが始まると、こちらが「もうやるよ」「はい、もう終わり、掃除するよ」と声をかけても、生徒たちはそれを無視するか、会話に巻き込んでくる。わたしが少しずつ表情と声色を堅くしていくと、生徒たちは面倒な雰囲気になると予感し、ゆっくり掃除を始める。しかし、そこで自分でごみを見つけるとか、自分で掃除場所を開拓するといったことを始める生徒はいない。少しごみをつついたら、またすぐに談笑し始める。
掃除の時間に起こることを、こうして書き出してみると、わたしの行き当たりばったりの指導に混乱と迷いが見て取れる。
まず、生徒が掃除をしないことの原因を、生徒の素質や能力に求めるべきではないということを、前提として認識しておく必要がある。頭では分かっていても、自分が学校に通っていた時の記憶が邪魔をして、「掃除なんてできて当たり前」「掃除しないのはやる気がないから、責任感がないから」などというしょうもない発想に取り憑かれそうになる。 そういう理解の仕方は不可能ではないが、この問題を考えるうえで意味をなさない。そもそも「生徒に責任感がない」という言葉自体には、いつでも意味がないかもしれない。生徒と環境の間にある多様なやり取りや駆け引きの傾向の一部を、あえて生徒に属する性質として語るとき、責任感という言葉が便利になるというだけのことだ。教育現場で言われる責任感という言葉は、形骸的で、幽霊のような言葉の一つだろう。 ほとんどの生徒が黙々と、創造的に掃除をしているのなら、一部の生徒が掃除をしないとき、それらの生徒に何らかのスキルが足りない、あるいは他と異なる認識を有していると考えることもできるかもしれない。掃除のしかたが分からないとか、掃除をする意味が分からないからしたくないとか。 しかしこの学校には、掃除を自分の営みとして行っている生徒は非常に少ない。多くの生徒にとって掃除時間は、談笑をしつつ時々見回りにくる教員をやり過ごす時間なのだ。数百人単位で掃除をしない生徒が集まっている環境で、なお生徒の性質ややる気を問うようでは、的外れもいい所だろう。生徒に掃除をしてもらう、願わくば自分の営みとして創造的に清掃してもらうには、環境を調整する必要がある。
環境要因という言葉は便利だ。実際に指導方法や指導者の態度を改める必要がある場合でも、環境要因といってしまえばあたかも施設や空気に原因があるかのように聞こえる。環境に原因があるといえば角は立たないが、本当は名指しで批判されているはずの教員たちが、問題を他人事としてしか捉えられないという弊害がある。「環境が悪いよね」という発話は「わたしたちに原因や責任はないし、わたしたちにできることはない」という諦念だけを表す。こういう場合の諦めは何も生まないのだけれど、環境のことを懸念していると言葉に出すだけでもなにか偉いことをしたような気分になってしまう。
「環境の調整が必要である」といっても、それは生徒や保護者や学校の責任者の仕事ではない。掃除監督を担う全教員の仕事である。
何ができるだろうか?