私の中にはマチスモとアンチ・マチスモが共存している。 髪を伸ばして前髪を作り、半ば強迫的にコスメを買い集めようとしらユニセックスな服装ばかりする時期がある。アイラインやアイシャドウ、マスカラまで使うようになる。しばらくその時期が続いたあと、何事もなかったかのように髪を短く切り、ポイントメイクを辞める。オールバックにしてみたり。 あれは何なのだろう。
キューバ音楽と落語が大好きだ。 キューバは今のところマチスモの国で、当面はそうであり続けるだろう。女は男の所有物であり、男は女に翻弄される愚かな生き物だ、という旧来のジェンダー観が根強い。男は、俺たちはバカだという自虐を盾にして、女を差別することを正当化している。女は所有され、男は愚かさを押し付けられる。 当然、この国で作られる歌というのは、こうしたジェンダー観に基づいた詞を歌うものになる。「俺の女に手を出すな」「この女はお前のものじゃない」そんな歌詞が並ぶ。「俺のもの」「お前のもの」という意味のmía, tuya (所有形容詞完全形)のような便利な言葉が、スペイン語には存在する。こうした言語的背景も、非対称なジェンダー環境を硬直化させているのかもしれないと思う。 あろうことか、この理不尽ジェンダー世界の音楽を、私は好きになってしまった。キューバ音楽が私の実存を構成する最大の要素となってから、少なくとも3年以上経過している。キューバ音楽のバンドの練習に3年間毎週のように参加して、何度もコンサートに出た。 キューバに行って1カ月楽器を習った。マッチョな歌詞を気に入ることは絶対にないが、キューバ音楽は音楽としてあまりにも素晴らしいので、好きにならざるを得ない面があった。あんなに多数の太鼓が、冗長性としてではなく必要不可欠な構成要素として共存し、機能している音楽は他にない。極限まで複雑に発達したリズムが、数学的なナルシズムではなく、生理的な運動である踊り(=salsa)に立脚している音楽というのもない。
落語も好きだ。小学校のときに一度好きになって、蔦屋でCDをレンタルして聴いていたが、数カ月で飽きたっきり、十年近く聴いていなかった。今年の冬、寮の同居人からポッドキャストを勧められて何個か聴いたが、何か腑に落ちなくて、腑に落ちる聴覚メディアは何かないかと考えていたら落語のことを思い出した。久しぶりに聴いて感動した。今年の夏に立川志の輔さんが大分駅の前のホールに来ると知ってから、狂ったように落語を聴くようになった。志の輔さんの独演会は見に行った。十年前にウォークマンで聴いていた落語家の肉声が暗闇の舞台の中心から私に届いて、心が震えた。喉ひとつ、身ひとつで千二百人の客を二時間近く酔わせることができる人なんて、日本にそう何人もいないと思った。 この落語の世界というのも相当にマッチョである。少なくとも、私の好きな古典落語の世界では、若い男にとって女は買うもので、いい年ごろの男にとって女は嫁にもらうもの。古典の登場人物たちの間では、日常会話で聞いたらマッチョすぎて卒倒してしまいそうなやり取りが繰り広げられる。古典落語では吉原の話、つまり性的サービスを行う店舗が密集していた特定の地域の話が非常に多い。古典に限らずとも、やはり落語家の一部(というか大部分かもしれない)はこういったジェンダー観を共有していて、「昇進の日だけは女郎買いが許される」みたいなことをマクラの中で平気で話す。古典でもちょっとどうかと思うが、新作やマクラでそういった発言があると心が曇るというか、何だかなあと思う。 それでも、通勤時に車の中で落語を流していて、サゲの鳴りやまない拍手を聴くと、映画を一本見てエンドロールを眺めているときの気分になる。頭のなかの江戸の道は薄暗く、寒空からしんしんと雪が降っていて、人の声が温かい。訓練された落語家は登場人物ごとに別の声を出す(といっても、露骨に声色を変えるのとは違う。一つの彫刻でも光のあたる角度によって表情が変わるように、微妙でありながら明らかな違いが現れる)から、こちらで弁別しなくても勝手に頭の中でカメラと被写体が切り替わる。行ったことも見たこともない二世紀前の東京の街は不思議と懐かしく感じられ、幕が下りるとその舞台が名残惜しくなるような噺もある。