毎日いろんな生徒と接していると、生徒が苛立ったり怒ったり嫌がったり悲しんだりする姿を毎日目にする。最近ではそういった場面に遭遇すると、規律違反や態度の悪さについて叱責する前に、一旦彼らの言い分を聞くようになった。すると、生徒によって形は違えど、負の感情の根底には「私は大事にされていない」という感覚があることがわかってきた。 私自身は多くの人に大事にされてきて、他人から軽んじられたと感じた経験が人生で数回しかないので(それはそれで鈍感すぎる)、自尊心を育むための基盤があった。そのため、理不尽な事態に怒り狂うことなく、どうしたら状況を打開できるかを考えることに神経を使うことができた。端的にいえば、周囲の人間由来の感情的リソースに恵まれていたのだ。十分に尊重されてきたことで、私は自分を守ることに自分の神経を使わずに済んでいたわけだ。外付けの感情リソースを自尊に充てていた分、内部由来の感情リソースを建設的に活用できていた、ともいえる。 いっぽう周囲の人間からあまり尊重されてこなかった場合、自尊感情を維持するために自分の感情リソースを使う必要がある。自分を守ることに精一杯になるのだから、やる気や自信といった感情にはリソースを割くことができず、自分の置かれている状況そのものを改善するための努力ができなくなる。 何がいいたいかというと、ある人間の自尊心を問題にする前に、十分な外付けの感情リソースが担保されているかどうかを問題にするべきなのではないかということだ。代表的な外付けリソースの出所とされるのは、家族や恋人や友人であろう。しかし、こうした相手から自尊どころか呪詛や憎悪を向けられる場合も当然ある。周囲の人間から負の感情を流し込まれ続けると、自分の実存を守る為に感情リソースを総動員せざるを得ず、結果として無気力、自信の無さ、あるいは怒りっぽさや暴力性に繋がることも考えられる。