「他者への没頭は、それが支援であれ、妨害であれ、愛情であれ、憎悪であれ つまるところ自分から逃げる為の手段である」

推しは、単純化された他者を希求することで、想像力を麻痺させ、自分の想像力が自分に向かないようにする営みなのではないか。

人間のあらゆる営みは人間的なものである。営みそのものを否定するべきではない。けれど、推しという感情は過剰な単純性への志向をはらんでいる。そうした志向が身の回りとの関係性にまで波及して、他者理解を放棄し単純な関係だけを作り出すような社会に、わたしは生きたくない。

過剰な単純化と適度な単純化の間の線引きや、単純化と複雑化の境界は、それを語る者が設定するかぎり、恣意的なものにならざるを得ないのではないか、という問題がある。そこで、わたしは線引きを重視しないことにした。単純化と複雑化のどちらに矢印が向いているのかを認識するよう努め、議論の相手とその認識を共有できるか確認しながら、検討していく。 推しとはつまり、単純化を志向する大きな矢印なのだ。この矢印の勢いを緩やかにしつつ、それとは反対の、つまり複雑性に向いた大きな矢印を作り出すことが、わたしの目標だ。

単純化にはどのような問題があるのか。まずわたし自身が感じる素朴な実感について述べると、今日では、人間関係がぬるま湯至上主義的な傾向を帯びているように思えるのだ。相手の嫌なところには目を向けずにすむように、なんとなく居心地のいい関係に収束するように、情報の入力と出力を絞る。嫌なところは隠すというより、「なかったことになる」。不満や摩擦は表明せず、距離を広げることで調整する。

こうした人間関係はそれほど身近ではない相手との間に見られそうなものだが、実際はむしろ家族や恋人、親友との間にこそ見られる気がする。

妻にすら「こうあってほしい」「こういう人だと思ってた」といった単純化の矢印を向けそうになる。親には強くあってほしいと思って強くあたってしまうけれど、実際は親も自分より数十年長く生きただけの人間で強くはない。ところが「親も人間なんだ」という気づきは結構ショッキングなので直視しようとしなかったりする。 身近な人間に対する単純化の矢印を弱めて、複雑なあり方に目を向ける作業は、ある程度、人によってはかなり、苦しいものになるだろう。それでも、大切な人を見つめなおしてその複雑さを引き受けることができたなら、敏捷かつ柔軟な、より強靭な関係がそこに現れてくるんではないかと思う。 複雑性を志向する矢印を育てていく過程では、各時点でそれなりにネガティブな感情を抱く場面があるだろう。改めて相手のさまざまな性質を直視すると、失望や迷いが生まれるかもしれない。複雑性に目を向けようとする限り、ポジティブで安全で清潔な感情だけに浸り続けることはできないのだ。自分の中に生まれた負の感情を片付けようとせずに、熟読し、向き合う。相手と自分の歴史を回顧し、今の関係性を立体的に見つめ、失望を受け入れたうえで、それでも前向きに関わっていくことについて考える。ずっと分かっていると思っていた相手たちと改めて出会い、再び解釈する。 身近な人との間でこうした「失望と再解釈の反復」がダイナミックに行われれば、止まっていた大きな機械の歯車が再び回りだすように、関係性がゆっくりと動き出すのではないだろうか。人間の体が日々変化するように、人間どうしの関係も動的に揺らぎ続けるものだと思う。単純化はそうした時間的な揺らぎすら無かったことにしてしまうが、その揺らぎを再び受け入れる必要があるのだ。

ところで、身近な人同士の「失望と再解釈の反復」は、どちらかが一方的に行うことのできるものだろうか。それとも、両者が目を合わせて行う、いわば共同作業なのだろうか。 そのどちらでもある、とわたしには感じられる。長期的には、そうした動的なあり方を双方が認識し、話し合いながら努力する必要があるだろう。しかし、この作業が必ずしも二人で同時に開始されるべきかというと、そうでもないかもしれない。あなたが何かのきっかけで、身近な人への自分の認識に潜む単純性への志向に危機感を感じたとしたら、まず自分から、「失望と再解釈の反復」を一方的に行うことは可能だ。このようなかかわり方は、自分と相手の両方に対して、複雑な見方を諦めないという点で、誠実である。そのような誠実なかかわり方を続けることで、失望と再解釈のサイクルが相手にも鏡のように波及することは十分期待できる。もしも相手が応じてくれなくても、その「閉ざし」、つまり相手が勇気を出して複雑性に踏み込むという選択ができなかったこと、をあなたは誠実に解釈する。それ以上複雑性へと進むことはできないかもしれないが、それまでの歩みは無駄にはならない。

人間関係の強靭化は、「失望と再解釈の反復」の目的であるというより、副産物に過ぎない。そもそも、ある人間関係を「強靭だ」「脆弱だ」と評価すること自体が、強い単純化の矢印を帯びた行為である。一時的に関係がよいものになった(ように見えた)としても、その後大きな事件が起こって、あるいは何の前触れもなく、関係が崩壊してしまった、ということもあり得る。 「失望と再解釈の反復」の最大の効用はおそらく、自分自身の複雑性を突き付けられることにある。他者の複雑性に向き合うとき、自分が他者をどのように単純化してきたのか、どういう相手を望んでいたのか、といった現実にも向き合う必要がある。そんなとき、あなたが本当に向き合うことになるのは、他者ではなく自分自身なのだ。相手への失望と再解釈は、自分への失望と再解釈でもあるといえる。

人は自分が何者なのかを知りたがることがある。世界とかかわる中で自分がどういう存在なのかを察し取り、自己同一性を構築しようとする。 しかし、自分だけで自分を解釈しようとすると、単純化された自己認識が形成される。難波優輝(2025)は、「自己語り」を歴史学者による「歴史的語り」と比較した上で、その問題点を「改訂排除性」と「目的閉塞性」という二つの語句によって説明している。

難波によれば「歴史的語りは、複数の語り手によって常に批判可能である」(p. 30)のに対し、「自己語りは、他人からの事実確認も訂正も乏しい状況で行っている。結果として、私たちは容易に歪んだ自画像を再生産してしまう」(p. 31)という。これが自己語りの「改訂排除性」である。 また難波は、自己語りが目的論的な説明、物語的な語りの形式をとることを指摘している。難波によれば、物語では、「行為者(主人公)は達成すべき最上位の「ゴール」を持ち、それに向けて複数の下位目標・計画の実施を試みる。たとえ障害や困難が生じても、別のルートで、目指していたゴール達成を目指す」(p. 35)。そして自己語りにおいても、人は自分の人生に「事実上存在しない必然性や運命的な「伏線」を見出そうとする」(p. 35)という。これが、難波が「目的閉塞性」と呼ぶ自己語りの問題点である。

自己語りが改定排除的で目的閉塞的であるのに対して、他者に対する「失望と再解釈の反復」を通じた自己理解は、改訂の可能性や目的からの独立性を確保できると考えられる。他者への失望は自己への失望を同時に引き起こし、自己理解は改訂を余儀なくされる。また他者の見つめなおしによって引き起こされる自己認識の変更は、自己のあり方を特定のゴールに導こうとして行われるものではないから、目的閉塞性からは分離されている。

参考文献 難波優輝(2025).『物語化批判の哲学–<わたしの人生>を遊びなおすために』.講談社.

推しの対象は多面性や複雑性を排除され、物語化される。一見相反するような性質を併せ持つ人の複雑さも、「ギャップ」として定式化され、単純性に吸収されてしまう。

先日、「(作品名思い出しておく、漫画)」という漫画を書店で見かけた。恋愛漫画におけるカップルの組み合わせで強調される人間の性質としては、とても一般的とはいえそうにない。 こうした「ニッチ」「マニアック」ともとれる独自の設定が探求される背景に、作者が自分の生み出すキャラクターを、あるいは自分自身を、典型として解釈されることから逃れさせたいと感じていることがあるのではないだろうか。

動物の動画をえんえんと見る人がいる。推しに金を貢ぐ人はいるが、癒し系の動物動画を見る分にはあまり金がかからない。生活の破綻をもたらすような弊害はなさそうだ。 しかし、精神的に安全で清潔な動物の姿を見続けることも、やはり想像力の麻痺に一役買っている気がする。動物や、動画の投稿者がそれを意図しているのではなく、動画を視聴する人が、あなたが、それを求めている。

スマートフォンを継続的に使用していれば注意が散漫になり、余計なことを考えなくてすむ。そういう時にはドーパミンが放出されて、快楽を感じられるようになっている。こうしたことは言われてきた。

推しに対する感情にも、そうした側面があるように思える。あるいは「恋は盲目」と揶揄されるような種類の恋愛感情も。相手にのめりこみ、信仰ともいえるような形で没頭するとき、相手の人間的な複雑さには目がいかず、単純化された「神」「天使」だけが見えるようになる。自分の作り上げた虚構の理想像が投影されていると言ってもいい。

推しという営みは、そうした「企図された盲目」のようなあり方に自覚的であるようにも思える。「推しと付き合いたいわけではない」「推しとは距離をとりたい」という人がいるが、それは「推しの複雑性やぶれを見たくない」「推しの嫌なところを見て幻滅したくない」ことを、それ自体をすら直視せずに表明することなのかもしれない。

人と人との関わりは複雑で、構成要素に名前を付けたとしても理解しきれない部分がある。夫婦の関係性は愛だけでは言い表せない。友人の関係性は友情だけでは説明しきれない。社会で一般的に名付けられる関係性と自分たちの関係性を比較して、似ているから便宜的に同じ名前を付けているだけなのだ。 「あんたとは友達だから、こんなことできない」とか、「恋人同士なんだからこんなことできない」といった発話は転倒しているのかもしれない。本当は、「あんたとは生理的にこういうことできない!あたしたち、やっぱり友達なんじゃない!?」とか「友達だと思ってたけど、あんたが他の子と一緒にいるのは嫌なの !世界はこれを愛と呼ぶんだぜ!!」みたいな順番が正しいのではないだろうか。