高校生のとき、友人と他のクラスの生徒についての話をしていた際に、ある名前を出すと「あぁ、韓国人ね」と返ってきて、すさまじい衝撃を受けた覚えがある。それは何の悪意も纏わない、単なる叙述だった。「あぁ、野球部ね」「あぁ、転校生ね」といった具合に。友人はその生徒と仲が良かったし、韓国のことを悪く思っているわけでもなかった。動揺しつつ「あ、そうなん」と応えると、「見るからにそうやん。」あ、外見で分かるのか。確かにテレビで見かけた韓国アイドルに似て、切れ長の目をしている。きれいな目だと思う。いやしかし…
韓国人という呼び方自体が、私にはかなり暴力的に聞こえた。中国人と言っても同じだ。しかしアメリカ人というと、そうでもない。キューバ人といえば、キューバ音楽が好きな私にとっては「先生」のような敬意のこもった言葉になる。高校二年生の私はインターネットで嫌中嫌韓の言説に初めて触れて、途方もない悪意の存在を知ったばかりで、この二国に対する直接的な投げかけ全てに棘を読み取ってしまうきらいがあった。しかし今でもやはり「韓国人は〇〇」などと言われると、息の詰まる感じがする。「キューバ人は腰が違う」なんて平気で言うのに(ダンスの話です)。
別のある友人は、韓国人を嫌っていた。それを知ったのは前述の件より後だったので、二人が同じ空間にいて大丈夫だろうか、などと心配したがまったくの杞憂で、韓国人を嫌う彼と韓国人の彼は廊下でふつうに話していた。何なら校外でも遊んでいた。
私は少し苛立ってきた。何なんだ「〇〇人」って。〇〇人を嫌うあんたも、渡来人か何かの祖先がいて実は〇〇人かもしれないじゃないか。そもそも〇〇人が何人いると思っているんだ。〇〇人という途方もなく巨大な集団の構成員全てに、無差別に何らかの性質を付与して、憎む嫌う避けるなんて所業、よくできるよな。意味わかんない。
固有性の掠奪。メガネ。のっぽ。ロン毛。イケメン。韓国人。その個人の、その個人だけがもつ固有のものを、奪い去ってしまう。その奪い去られ方をどの程度感じるかは、おそらく人によって違う。友人がイケメンと呼ばれているときにさえ、この掠奪を大真面目に感じ、少し心が痛むのは、私だけだろうか(私だけかもしれない)。