Preparando...

2026-04-06 おじさまも読む手を止めてそれを見た

学校に行くのに乗っている列車は川を何本か渡る。河川敷にぶわっと桜が咲き並んでいて、携帯に日記を入力している手を止めてそれを見た。ボックス席で向かい合って目の前に座っているおじさまも、Rich Lifeという本を読む手を止めてそれを見た。こういう瞬間が私は一番好きなのだ。
今日は生成AIを使わずに1日過ごしてみる。使わないことが目的なのではなく、自分がどのように生成AIを使ってきたのかを体感するためだ。〇〇断ち、〇〇デトックスといった実践はもはや古いというか素朴すぎると思っており、今必要なのはそれを超える何かである。「何か」が何なのかはまだ分からないが、少なくともそれは分析を土台にしていると思う。デジタルデトックスというキャンペーン的なものに安易に飛びつく前に、「自分はいつデジタルな機器を使うのか?どんな時には使わないのか?」「自分はデジタル機器にどのような面において依存していて、どのような面では依存していないのか?」といった問いを入口にして、対象と自分との間にどのような交渉が発生してきたのかを慎重に検討するべきなのだ。

2026-04-05 盗み聞きQ&A

(クレープ屋にて)
Q. ロイヤルミルクティーのティー抜きとかってできますか?
A. できません

2026-03-30 缶コーヒーの開栓音を分散

ダイヤ改正以降は同じ時間の列車でも日によって座席のタイプが変わるようになった。今日はボックス席ではなくロングシートだ。そして驚いたことにウィリアムがいない。出遅れたのだろうか、それとも今日は休みをとっているのだろうか。休みをとった日のウィリアムの朝はいっとう優雅なものだろう。きっと紅茶を淹れてゆっくりしている。 二つ目の駅で乗り込んできた小柄な男性。動きやすそうな格好をしていて、何かの現場に向かっている感じ。微糖の青い缶コーヒーを取り出してすぐには開けず、周りに配慮してかゆっくりと開けた。缶のプルタブは普通に開けても「カシュ!」と鳴るし、どんなに気をつけてゆっくり開けても「カ!……シュ!」と分散して鳴るので、ピークの音量は多分変わらない。それでも音量感を低減しようと努力するおじさんが愛おしい。しかし列車で「カシュッ!」と爽やかな音を立てて缶を開けられても、全然気にしないんだけどな。

2026-03-26 いきちがい列車

今日の列車の運転士さんは少し滑舌が良くないというか、年齢と経験を重ねて滑舌が良い悪いといった次元を脱した所にたどり着いている感じ。二つ目の駅に到着したとき「当駅ではきちがい列車と待ち合わせで三分ほど停車します」と放送していてびっくりした。あ、行き違い列車か。

2026-03-17 ボックスシートなら他人とも話せそう

毎朝通勤のために乗っている列車の発車時刻が、ダイヤ変更に伴って7分早まった。朝の準備も7分前倒しにしなければならないが、7分早く起きるというのはなんだか納得いかなくて起床時間は変えなかったので、準備の速度を少し上げざるを得なかった。
昨年の4月に働き始めてから、朝の準備にかかる時間が長いことがずっと悩みだった。初めのうちは必ず朝5時半に起きて、1時間もかけて準備をしていた。最近になってようやく準備時間の短縮に成功し、6時起床でも余裕をもって駅に着くことができるようになったのだ。 いつもより7分早く駅に着き、プラットフォームに降りると、列車のホームが変わっていた。車両も何だか外観が以前と違う。乗り込むと、内装はもっと違った。前の車両はロングシートだったが、これは……ボックスシートだ!観光列車のような、四人一組で向かい合う形の座席。空席を探し歩いていると、以前のロングシートでいつも向かいに座っていた男性を見つけ、そのボックス内の斜向かいに座る。
この男性は4月からずっとこの時間の列車にいる。私の最寄り駅が始発駅なので、男性もこの辺りに住んでいるのだろう。眼鏡をかけておりスキンヘッド。中年にしてはスタイリッシュな身なりと風貌をしており、日本人なのか外国出身の方なのか今一つ判断がつかない。ここでは仮にウィリアムとしておこう。ウィリアムはロングシートでは、始発駅から一駅の間は必ず隣の席に荷物を置いているのだけど、隣駅が近づいてくると荷物を膝に乗せて座席を空ける。どちらにせよ乗客は少なく、荷物を置かなくたって誰も隣に座ってくることはないから、理由は分からない。
いつもはロングシートの向かいに座っていたから2mくらいの距離があったが、今はウィリアムと約30cmの距離に座っている。ちなみに30cmというのはウィリアムと私の膝同士、最も接近している部位の距離だ。ウィリアムも私も背が高いので、膝の距離が近い。私たちはファミレスの座席よりも近い距離で文字通り膝を突き合わせて座っており、このまま話しかけたら普通に会話ができそう、そんなことを考えていたら高校生の時に列車で旅をした時のことを思い出した。
ある友人と、首都や被災地や大学を見学する日本一周研修旅行を計画してPTAの補助金をぶん取り、約十日間かけて福岡、大阪、東京、宮城、広島の5都市を列車で訪れた。
大阪から東京にがーーっと大移動した日、静岡か神奈川あたりでボックス席で一緒になった初老のご婦人と話をした。彼女はこれから江の島の別荘に一人で行くという。いつも家にいる夫からも、また家事からも解放されると言って嬉しそうだった。
旅の終盤に広島あたりで同席したのは小学生5, 6人。北海道から来たというから驚いた。家の近所に住むおじいさんと来たというからさらに驚いた。おじいさんは毎年、近所の子どもたちにいろいろな経験をしてもらうため、旅に連れていくのだとか。近所のおじいさんに子どもを何日も預けて旅に出すことのできる親もすごい、なんて温かい近所だろうと思った。きっとおじいさんの人柄がいいから、親も信頼しているのだろう。小学生たちはしっかりしていて、しゃきしゃき喋る。私たちは割りばしゲームや嵐(指スマ)をして長い時間遊んだ。二度と出会うことのないであろう人々と列車で話して遊んで、そのことに感動して一枚だけ写真を撮った。 

思えば、あの列車旅行で知らない人と話をしたときは、いつもボックスシートだった。ロングシートではなかなか会話が始まらない。ボックスシートなら、もしかしたら、通勤列車でも誰かと話ができるかもしれない。私は知らない人と話をするのが昔から好きだ。幼稚園児のころの私は、スーパーで母がちょっと目を離した隙にいなくなり、店の前のベンチで知らないおじいさんやおばあさんと話していた(らしい)。これからも列車のボックスシートに座るときには、私は知らない人とでも会話がしたい人間ですよ、という表情をして座っておこうと思う。

2026-03-16 全力疾走出勤

朝、駅に着くといつも乗る列車がなかった。調べてみると3月14日土曜日にダイヤ改正があり、私のいつも乗っていた列車は発車時刻が7分早まったと分かった。なんてことだ。いままでの人生では日常的に列車に乗ることがなかった私、ダイヤ改正が行われるのは年度の変わる4月1日だろうと勝手に思っていた。世間知らずを恥じる気持ちはあまりないが、実害というかこういう困りがある。
とりあえず、次の列車に乗る。職場の最寄り駅への到着時刻を見ると、出勤時刻の9分前だ。ちなみに、駅から職場までは歩いて約20分かかる。

走るか。

最近の私は駅と職場の往復も、駅と家の往復もよく走っている。小走りのこともあるし、インターバルトレーニングをすることも。移動手段として、走ることのハードルが低くなっているのだ。
果たして、間に合った。普段から走っておくといいことがある。

2026-03-14 ピアノロールに置いて行かれるおじさん

高校の時に吹奏楽部で一緒だった友達に会いに行った。大学生の時は3年以上会っていなかったのに、今回は2カ月ぶりにまた会うことになり、時間的な分布が偏っており面白い。 彼は元々ピアノを弾く人だったが中高でサックスを吹く人になった。高校卒業後、ほとんど会っていなかったから動向を知らなかったのだけど、音楽を中心に目まぐるしく人生が転がっているようだ。

彼にこんな話をした。

顧問をしている音研の生徒たちがキーボードで好きな曲を弾くのを見ていると、どうもスマホで楽譜ではないものを見ている。近づいて見てみると、横向きに置いたスマホの画面の下部にピアノの鍵盤が描かれていて、上からネオン色の縦長い棒が落ちてくる。生徒はその棒の位置と長さを見て、対応する鍵盤を弾いている。いわゆるピアノロールというやつだ。見たことのない人は太鼓の達人を縦にしたようなものと思ってほしい。彼らはYouTubeのショート動画やインスタグラムのReelでこういうピアノロールの動画を見つけてそれを見ながら、一旦停止したり少し巻き戻したりしながら練習しているのだ。 私が高校生の時には、趣味というか遊びでピアノをやる人も周りにいたけれど、こういう動画を見ながら弾いているのは見たことがなかった。ピアノ練習のためのメディアが変わってきている、おそらくは容量無制限のスマホ向け通信サービスやショート動画の普及によって、楽譜を見るということが当たり前ではなくなってきている。かつては紙やpdfの楽譜を見るのが最も妥当な方法だったのが、今は違う。動画にすることで時間という次元が一つ増えたので、その分「目を左から右へ滑らせる」という楽譜に必要な動作が不要になり、常に固定された鍵盤を見ていれば音符(の代替としてのネオン色の棒)が上から落ちてきて音高と音価とタイミングが分かる。

クラシック・ピアノを学んだことのある彼はたいへん驚き、楽譜を見たほうが良いだろうそれは、と言ったがすぐに「クラシックやってきたからこう思うのか」と自分を客観視していた。楽譜というメディアも自明ではなく、先人たちの努力と試行錯誤を経て洗練され、たまたま今の時代に支配的になっているに過ぎない。私はなんだか、100年後の人々が楽譜を見て楽器を練習しているとは思えない。娯楽や暇つぶしの領域でメディアの形態が大きく変化すると、専門的な領域にもその変化が波及するかもしれない。

そのような話を二人でした後、「こうやっておじさんになっていくんだ……」という恐ろしい実感が湧き上がってきて一緒に恐怖した。「おじさんを自認できている間は良いよね、本当に怖いのは自分がおじさんって言えなくなってからだ」とも話した。それにしても時代の変わり目、メディアの変わり目に今自分たちが立っていることがよく分かって面白い。

2026-03-09 ウニかもしれない

喧嘩をしない時代になったのでは、と思う。衝突を避けるためにあらゆる予防線を張り、フィルターをまとっている。傷つけないために距離をとっているのは、傷つかないためでもある。 しかし、人間はそばにいようとする。そばにいることは、いつ相手を傷つけてしまうか分からないという畏怖を引き受け続けることだ。

ウニかもしれない。近づきすぎて傷つけあってしまうことがある。しかし、共にある以上傷つけあうことは織り込み済みなのだ。極力、針の短いウニになろうではないか。傷つけてしまうこともあるが、その時にはもうたいへん近くにいる。

このように書いてから、念のためと思って調べてみたところ、ウニには硬い殻があるため傷つけ合うようなことはないようだ。さすがはウニだ、我々とは格が違う。

2026-03-05 ダイソーの駐車場で誇らしげな撮影

今日もいつも通り定時で学校を退勤、駅まで走っていたらダイソーの駐車場で東南アジア系の女性が写真撮影をしていた。一人がマスクを外してカメラに目線を送り、もう一人がスマートフォンで丁寧に撮っている。100円ショップの駐車場で、こんなに誇らしげに写真に写ることのできる彼女は素敵だ。

学校と駅の往復、駅から自宅への帰路での移動方法は、もともとは徒歩だったのだが最近は駆け足だった。今日は(全力疾走30秒+小走り60秒)×5~8回というインターバルトレーニングを採用してみたところ非常に身体に良さそうな感じがした。心配への負荷が後を引かない感じ。明日からもこの方法で移動しようと思う。

2026-03-03 よく見ると大きすぎたスマホ

nothing_cmf 新調したスマートフォンがすごく、すごく大きいということにやっと気がついた。開封時にあっでかいなとは思ったが、見やすくてよろしいとしか思わなかった。机に置いて操作する分には一向に問題ないのだ。しかしスマホは、一般的には、机に置いて触るものではなく手に持って触るものだ。このスマホ、イギリスのnothingというブランドのもので、おしゃれかつミニマルな感じがとても気に入っているのだけど、片手ではとても操作できないほど大きい。左手に持って右手で操作することは可能だが、うーん、大きすぎて左手が疲れる。これなら自然にスクリーンタイムを減少させられそうだ。

2026-03-01 今できなくても本番はできる(かも)

今日は卒業式。みんな、表情にも服装にも気合が入っていていい感じ。卒業生の担任が茜色の振袖を着ていてとても似合っており、きれいで大きな布を見ることができて幸せだった。 1年のある組の担任は式の準備で忙しいため私が代理を任された。教室に上がると、いつもは着けていない生徒もきちんとリボンを着けているではないか。教員が服装や頭髪について生徒に指導する時には、大学や企業の面接を念頭に話をすることが多い。ほんば「普段できないことは本番もできない」などと言って平時からの服務規律徹底を求めるのは教員の常套手段だが、(やっぱりできるじゃん)と思ってしまった。

2026-02-26 コード進行に著作権はない

今読んでいる本に文体が似るというのは恐ろしいことで、必死に書き上げたものが「君の文章って○○みたいだね」と一蹴されてしまう可能性がある。しかし最近入力した情報のスタイルを自分からの出力にも反映させてしまうことは端的にいって学習の成果であり、それは音楽や踊りでも同じことなのではないか。 最近聞いた音楽のリズムや和声やメロディが自分の作品にも似た形で現れる、なんてことはどんな音楽家にもありそう。もちろん、歌い方や演奏の仕方もそう。芸術性や作品性が認められないような単純な模倣は道義的にも法的にも許されないだろうが、要は程度の問題である。吸収したスタイルの模倣はあくまで端緒であるべきで、その後自分の感性に落とし込む過程が必要になる。友人が「コード進行に著作権はない」と言って好きな曲のコード進行を使った別な曲を作ったりしていたのを思い出した。メロディが似ると怒られそうだけど、コード進行やリズムが似ても怒られそうにはない。これは単純に、コード進行やリズムは似ても仕方ないくらいバリエーションが少ないということの証左かも。 ともあれ、高校生の時は村上春樹みたいな書き方が好きだった。大学生になってレポートや論文を書く中で、文体にも手続きというか規範があるんだということが詳しく分かり、規則正しく書くことと規則を破って書くことを意識的に行えるようになったことで、自分の書き方がなんとなく定まってきた。そうやって自分の文体のようなものができたが、最近は毎日読書をするのでそのとき読んでいる本の影響を強く受けている自覚がある。

2026-02-25 撥水リュックに濡らされる

シリコンのような撥水素材でできたリュックサックを購入して1ヶ月ほど経過し、やっと雨が降った。撥水が売りの鞄はついに本領発揮の舞台を得たわけだ。妻に送ってもらった車から駅に飛び移る時、頭には傘をさすがリュックは濡らしてみた。果たして、リュックは濡れた。そして染みない。撥水ということに人類の欲望が象徴されている。雨が降れば濡れるのが道理だが、人はそれに抗おうとしているのだから。 傘をささなくてもリュックの中身が濡れないということが、ここまで便利だとは思わなかった。私はるんるんと列車に乗り込み座った。リュックを膝に乗せると、大いに濡れている。当たり前のことだが撥水リュックは水が染みないから、新鮮な水滴を周りにぽたぽた垂らす。私のズボンに小さな雫が落ち、暗い色の染みがたくさんできた。暗澹たる気持ち。しかしズボンも速乾素材なので、列車を降りるころには誰も私がリュックから反撃されたということに気が付かない。それにしても人類の濡れることへの抵抗心はすさまじい。

2026-02-20 エクセルファイルを移動する魔法

ITコースのExcel実習で生徒に複雑な罫線の設定を尋ねられて「その他の設定」の使い方を教えると、生徒が深く感心してくれた。そういえば先日他のコースの授業でExcelを教えた時も、ファイルの切り取りからデスクトップへのペーストまでをショートカットキーだけで行ったところ生徒から「え、魔法!?」と叫ばれた。パソコンのショートカットキーを知っているだけで魔法使いになれるのだから21世紀は楽勝。

2026-02-19 列車で名刺交換

今日の帰りの列車は旅客用?のボックスタイプの座席で、高校生一人が通路側に座っていたので、注意深く同じボックスの斜向かいに座って身を小さくした。列車が一駅進みドアが空いて結構な人数が鶴崎駅に降りて、少し列車が空いたなと思うと今度は六人の初老の男性と一人の若い女性が乗り込んできた。男性らは昭和のサラリーマンをそのまま老けさせたような服装で、眼鏡も昭和から持ってきたような品と茶目っ気のあるものをつけていた。高校生と私の座るボックスにはまだ二席の空きがあって、女性が男性らに座席を勧めたところ、レディーファーストの名目でかえって女性が座ることになった。 待ち合わせのために列車はこの駅にしばらく停車する、と放送される。男性のうち一人と女性は初対面のようで、停車中の列車の中で名刺交換が始まってしまった。女性は中野さんというらしい。 「中野と申します」 「ご噂はかねがね」 中野さんと名刺交換をした男性は、やはり昭和のサラリーマンの風格で挨拶をした。四十分はかかるよなどと言っているが夕方に佐伯行きの列車に乗り込んできたこの集団は一体どこに向かっているのだろうか。

2026-02-19 燃費のわるい身体

よくこんなに食うな、と自分でも感心するくらい大きなおにぎりがリュックサックの一番上に入っている。列車に乗るときは本を読むがすぐにしまって降りられるようリュックサックの口を開放しているので、その中から米と海苔の温かい匂いがほわほわと立ち上ってくる。うちでは前日に予約しておいた三合の白米(といっても雑穀が混ざる日も多い)が朝一番に炊き上がり、私と妻はそこから朝食と昼食の主食を確保してきたのだが、最近では私の必要とするご飯の量があまりに多いので朝にもう一度炊飯するようになっている。私の朝食であるおにぎり(味付け海苔4切れ付)は少なく見積もっても1合以上のご飯でできているし、昼食の弁当に詰めるごはんもやはり、1合以上のご飯でできている。私がたくさん食べている様子を見た人には「細いのによく食べるね」あるいは「そんなに食べてよく太らないね」とよく言われるし、私も不思議だと思うこともあるけれど、太ったことがないので不思議さの実感はない。妻には燃費が悪いと言われる。そう言われると生きているだけで地球環境に対して人一倍負荷をかけているのでは?と心配になったりもするが、もっと燃費の悪い生き方をしている人もいると信じているので気にしない。 好きな食べものを尋ねられるとすごく悩むが、あれはどうしてあんなに真剣に悩んでしまうのだろうか。とりあえず上位で思いついたものを答えたとしてもなんら不利益はないのに、なぜか「私の真に好きな食べ物」というものを正しく答えるべきだと感じる。これが誠実ということだ。自分への誠意でも、相手への誠意でもある。誠意ある人は嘘をついても発覚せず不利益も生じない状況で、それでも本当のことを言おうとする。それゆえ誠意とは不可視かつ不可知のものなのだ。

2026-02-18 小室を知らないのは私も同じ

音研に入部したばかりの生徒がCASIOTONEを買ってきた。この生徒は演奏がめちゃくちゃに安定しており上手い、たぶんピアノを習ったことのある人だ。令和の音楽のシンセをCASIOTONEで弾くのには中々厳しいところがあって、ミセスのANTENNAを文化祭で弾くべく練習している部員たち皆で音探しに苦戦している。私も一緒になって探して、イントロの前半はシンセパッド、後半はシンセリードにいい音を見つけた。小さい頃CASIOのキーボードでいつも遊んでいたので、ぐるぐるとダイヤルを回して何百との音色を試す時、どのあたりにどんな音があるかだいたい分かる。すぐに音色を切り替えなければいけない場面があり、CASIOTONEの奥に88鍵の電子ピアノも置いて卓上で小室をしていた。「小室じゃん。あはは」と言ったけど生徒は誰も反応してくれず小室は世代じゃないよなと思ったが、そういえば私も小室を全然知らないのだった。

プリセット、というかそれしか鳴らしようのない内蔵音源を何とか使い分けてポップスを演奏することには、高校生特有のロマンがある。お金がないのでそこにあるもので音楽を鳴らすしかなく、普通ならしないような無茶な接続をしたりする。バンド音楽ではなくポップスを演奏しようとする稀有な高校生バンドは、ブリコラージュを強いられることで創造性を身に着けていく。

「シンセベース、ポチっちゃった」とドラムの生徒に言ってみたら、「あ、ああ」とだけ言われた。私はこのドラムの生徒の感性や笑いのツボが自分に似ていてすごく嬉しいのだけど、この人が私の言うことで笑ったり昂ぶったりすることはあまり無いので毎回反省する。

2026-02-16 BPM146を叩きこむ

今日も音研の新入部員たちはミセスのANTENNAの練習をしている。この人たちは最初の合わせの時から電子ドラム内蔵のメトロノームを鳴らしていて、感心した。初心者も何人かいるが、このまま練習すれば同期も使えるくらい上手くなるだろう。時間が来て片付けをして教室を出てからも、ギターの生徒は「146を叩き込む」と言ってスマホでメトロノームを鳴らし続けていた。階段にカチカチカチカチ響いて笑ってしまう。「電車で向かいに座ってる人がイヤホンで聞いてるのが実はこれだったら、めっちゃ怖いよね」とボーカルの生徒に言ってみたら、「待ってそれヤバい」と言われた。ヤバくて嬉しい。

2026-02-16 もちろん水族館ではない

塩素系の消毒剤の匂いがすると、ああ誰か吐いたんだな、それか水族館だなと思う。 小学校の時、誰かが吐いた後に塩素系の消毒がなされて辺りにその匂いが漂っていたので、これは吐いた時の消毒薬の匂いか、と思った。しかし、水族館でも同じ匂いを嗅いだことがあった(なにに使うかは分からない)ので、ふと校内で塩素系の匂いがした時、毎回「吐いたか、水族館かどっちかだ」と考えていた。もちろん水族館ではない。

2026-02-10 フーヅ

通勤中に交差点ですれちがった小型トラックに、「東九州デイリーフーヅ」と書かれていた。たしかにfoodsのカタカナ表記はフーズよりフーヅの方が的確な気がする。tがタ行ならdはダ行だろう。それにしても、dsってヅなんだな。

2026-02-05 「自分はneutral」はあぶない

私が高校生の時にALTをしていた年上の友人(アメリカ出身)が「自分の考えがneutral(中立)だと思っている人はあぶない」って言ってて、その通りだと思った。思い当たる節があるのでぞくっとした。

2026-01-30 掃除をしない生徒と一緒にできること 2

今日は「このへんの枯れ葉全部集めたら帰っていいよ」ではなく、「ビニール袋一つパンパンにしたら帰っていいよ」と伝えた。思い付きで変えたのだが、恐ろしく効果があった。判定基準がかなり明確になるからだろう。教員の判断で勝手に範囲を広げたり、仕事を追加したりする可能性も低くなる。この伝え方をすると、普段はだらだら話して時間をやり過ごしている集団も、きっちり一袋をパンパンにしてくれた。ある集団は話しながらゆっくり枯れ葉を集めるようになり、ある集団は急いで一袋をパンパンにして帰っていった。

成果物はごみの方で、きれいになった環境の方ではなかったのだ。環境に目標を設定しても見えにくいし、「ごみがなければ合格」は減点方式なのだろう。成果物の量の方に目標を設定すると、「ごみが一定量あつまれば合格」という加点方式のゲームが構築できる。

2026-01-26 させる-する からの脱却と一人称的実践の反復

教育現場では「させる→する」という安易な管理の認識がまかり通ってしまうので、大人たちはすっかり子どもを管理「できる」身体として出来上がってしまう。それゆえ、何か課題がある時には「なにをやらせるか」ばかり考えてしまい、最終的に教員がとる行動そのものに対して向ける意識が疎かになる。「なにをしてもらうか」という目標は遠くにぼんやりと見据えつつも、まずは「(わたしが)何をするか」という一人称的な実践を重視すべきではないのか。他者はコントロールできないという前提を、学校教育という文脈は容易に破壊してしまう。そうではなくて、「わたしは、これをする」を反復的に継続するべきなのではないか。

2026-01-25 小野マトペ

オノマトペは小野さんが発見した概念だからオノマトペなのだと思っていた。外国語っぽくない外国語というのがある。

2026-01-23 掃除をしない生徒と一緒にできること 1

生徒が掃除をしない。やるよ、と声をかけても掃除道具を持たない。 人命救助のときには、「あなたは救急車を呼んで!あなたはAEDを持ってきて!」と特定の人を指して依頼すべきだと、救急救命講習で教わった。明確に役割が与えられることで実行可能性が高まるのではないかと考え、「今日はあなたはハタキ、あなたは雑巾、あなたはホウキ、あなたは熊手」と道具を指定して依頼する、時には手渡すようにしてきた。大抵、その段階でも生徒は渋る。嫌々道具を受け取って、一応歩き始める。 しかし、道具を持ったまま談笑を始めたり、遊び始めたりする。談笑や遊びが始まると、こちらが「もうやるよ」「はい、もう終わり、掃除するよ」と声をかけても、生徒たちはそれを無視するか、会話に巻き込んでくる。わたしが少しずつ表情と声色を堅くしていくと、生徒たちは面倒な雰囲気になると予感し、ゆっくり掃除を始める。しかし、そこで自分でごみを見つけるとか、自分で掃除場所を開拓するといったことを始める生徒はいない。少しごみをつついたら、またすぐに談笑し始める。

掃除の時間に起こることを、こうして書き出してみると、わたしの行き当たりばったりの指導に混乱と迷いが見て取れる。

まず、生徒が掃除をしないことの原因を、生徒の素質や能力に求めるべきではないということを、前提として認識しておく必要がある。頭では分かっていても、自分が学校に通っていた時の記憶が邪魔をして、「掃除なんてできて当たり前」「掃除しないのはやる気がないから、責任感がないから」などというしょうもない発想に取り憑かれそうになる。 そういう理解の仕方は不可能ではないが、この問題を考えるうえで意味をなさない。そもそも「生徒に責任感がない」という言葉自体には、いつでも意味がないかもしれない。生徒と環境の間にある多様なやり取りや駆け引きの傾向の一部を、あえて生徒に属する性質として語るとき、責任感という言葉が便利になるというだけのことだ。教育現場で言われる責任感という言葉は、形骸的で、幽霊のような言葉の一つだろう。 ほとんどの生徒が黙々と、創造的に掃除をしているのなら、一部の生徒が掃除をしないとき、それらの生徒に何らかのスキルが足りない、あるいは他と異なる認識を有していると考えることもできるかもしれない。掃除のしかたが分からないとか、掃除をする意味が分からないからしたくないとか。 しかしこの学校には、掃除を自分の営みとして行っている生徒は非常に少ない。多くの生徒にとって掃除時間は、談笑をしつつ時々見回りにくる教員をやり過ごす時間なのだ。数百人単位で掃除をしない生徒が集まっている環境で、なお生徒の性質ややる気を問うようでは、的外れもいい所だろう。生徒に掃除をしてもらう、願わくば自分の営みとして創造的に清掃してもらうには、環境を調整する必要がある。

環境要因という言葉は便利だ。実際に指導方法や指導者の態度を改める必要がある場合でも、環境要因といってしまえばあたかも施設や空気に原因があるかのように聞こえる。環境に原因があるといえば角は立たないが、本当は名指しで批判されているはずの教員たちが、問題を他人事としてしか捉えられないという弊害がある。「環境が悪いよね」という発話は「わたしたちに原因や責任はないし、わたしたちにできることはない」という諦念だけを表す。こういう場合の諦めは何も生まないのだけれど、環境のことを懸念していると言葉に出すだけでもなにか偉いことをしたような気分になってしまう。

「環境の調整が必要である」といっても、それは生徒や保護者や学校の責任者の仕事ではない。掃除監督を担う全教員の仕事である。

何ができるだろうか?

2026-01-21 列車に乗りこんできた人の右手には大鍋

眼鏡をかけた人が、ばかでかい鍋を持って列車に乗り込んできた。2歳児が湯あみできそうな大きさのブリキ鍋は使い込まれていて、何十年も炊き出しの豚汁を作ってきた鍋というような趣がある。蓋はない。鍋を持った人は、一度私と同じ車室に乗り込んできて長い座席の端に座ったが、手すりと座席の隙間に鍋を固定しようとしてそれが困難だと分かると、隣の車室に移動していった。彼が鍋を列車に固定することを試みる度に、カラカラと小気味いい音が鳴った。列車に乗る全ての人が鍋とその持ち主を見た、眼鏡の人は恰好も髪型も立ち居振る舞いも平均的でそれほど特徴がなかった。

2025-11-21 経験のアーカイブとしての私

自分を経験のアーカイブだと思っているので、侵襲的な経験を耐えられない。 一般的に「嫌でも多少我慢すべき」とされるようなことが、私は我慢出来ない。今すぐ出発しないと間に合わない、というような状況でも喉が渇いたなと思うと水を飲んでしまう。これは根性や気力の不足が原因なのではなく、負の経験が蓄積されていくような感覚があるためだ。 「この場さえやり過ごせば済む」という発想で嫌な経験を辛抱できる人の場合、その経験を非侵襲的なものとして捉えることができるということになる。一方で私は、嫌な思いをしたことはこの身に刻まれ二度と取り返しがつかないと感じてしまう。

2025-11-19 揺れるアンチ・マチスモ

私の中にはマチスモとアンチ・マチスモが共存している。 髪を伸ばして前髪を作り、半ば強迫的にコスメを買い集めようとしらユニセックスな服装ばかりする時期がある。アイラインやアイシャドウ、マスカラまで使うようになる。しばらくその時期が続いたあと、何事もなかったかのように髪を短く切り、ポイントメイクを辞める。オールバックにしてみたり。 あれは何なのだろう。

キューバ音楽と落語が大好きだ。 キューバは今のところマチスモの国で、当面はそうであり続けるだろう。女は男の所有物であり、男は女に翻弄される愚かな生き物だ、という旧来のジェンダー観が根強い。男は、俺たちはバカだという自虐を盾にして、女を差別することを正当化している。女は所有され、男は愚かさを押し付けられる。 当然、この国で作られる歌というのは、こうしたジェンダー観に基づいた詞を歌うものになる。「俺の女に手を出すな」「この女はお前のものじゃない」そんな歌詞が並ぶ。「俺のもの」「お前のもの」という意味のmía, tuya (所有形容詞完全形)のような便利な言葉が、スペイン語には存在する。こうした言語的背景も、非対称なジェンダー環境を硬直化させているのかもしれないと思う。 あろうことか、この理不尽ジェンダー世界の音楽を、私は好きになってしまった。キューバ音楽が私の実存を構成する最大の要素となってから、少なくとも3年以上経過している。キューバ音楽のバンドの練習に3年間毎週のように参加して、何度もコンサートに出た。 キューバに行って1カ月楽器を習った。マッチョな歌詞を気に入ることは絶対にないが、キューバ音楽は音楽としてあまりにも素晴らしいので、好きにならざるを得ない面があった。あんなに多数の太鼓が、冗長性としてではなく必要不可欠な構成要素として共存し、機能している音楽は他にない。極限まで複雑に発達したリズムが、数学的なナルシズムではなく、生理的な運動である踊り(=salsa)に立脚している音楽というのもない。

落語も好きだ。小学校のときに一度好きになって、蔦屋でCDをレンタルして聴いていたが、数カ月で飽きたっきり、十年近く聴いていなかった。今年の冬、寮の同居人からポッドキャストを勧められて何個か聴いたが、何か腑に落ちなくて、腑に落ちる聴覚メディアは何かないかと考えていたら落語のことを思い出した。久しぶりに聴いて感動した。今年の夏に立川志の輔さんが大分駅の前のホールに来ると知ってから、狂ったように落語を聴くようになった。志の輔さんの独演会は見に行った。十年前にウォークマンで聴いていた落語家の肉声が暗闇の舞台の中心から私に届いて、心が震えた。喉ひとつ、身ひとつで千二百人の客を二時間近く酔わせることができる人なんて、日本にそう何人もいないと思った。 この落語の世界というのも相当にマッチョである。少なくとも、私の好きな古典落語の世界では、若い男にとって女は買うもので、いい年ごろの男にとって女は嫁にもらうもの。古典の登場人物たちの間では、日常会話で聞いたらマッチョすぎて卒倒してしまいそうなやり取りが繰り広げられる。古典落語では吉原の話、つまり性的サービスを行う店舗が密集していた特定の地域の話が非常に多い。古典に限らずとも、やはり落語家の一部(というか大部分かもしれない)はこういったジェンダー観を共有していて、「昇進の日だけは女郎買いが許される」みたいなことをマクラの中で平気で話す。古典でもちょっとどうかと思うが、新作やマクラでそういった発言があると心が曇るというか、何だかなあと思う。 それでも、通勤時に車の中で落語を流していて、サゲの鳴りやまない拍手を聴くと、映画を一本見てエンドロールを眺めているときの気分になる。頭のなかの江戸の道は薄暗く、寒空からしんしんと雪が降っていて、人の声が温かい。訓練された落語家は登場人物ごとに別の声を出す(といっても、露骨に声色を変えるのとは違う。一つの彫刻でも光のあたる角度によって表情が変わるように、微妙でありながら明らかな違いが現れる)から、こちらで弁別しなくても勝手に頭の中でカメラと被写体が切り替わる。行ったことも見たこともない二世紀前の東京の街は不思議と懐かしく感じられ、幕が下りるとその舞台が名残惜しくなるような噺もある。

2025-10-22 自尊のリソース

毎日いろんな生徒と接していると、生徒が苛立ったり怒ったり嫌がったり悲しんだりする姿を毎日目にする。最近ではそういった場面に遭遇すると、規律違反や態度の悪さについて叱責する前に、一旦彼らの言い分を聞くようになった。すると、生徒によって形は違えど、負の感情の根底には「私は大事にされていない」という感覚があることがわかってきた。 私自身は多くの人に大事にされてきて、他人から軽んじられたと感じた経験が人生で数回しかないので(それはそれで鈍感すぎる)、自尊心を育むための基盤があった。そのため、理不尽な事態に怒り狂うことなく、どうしたら状況を打開できるかを考えることに神経を使うことができた。端的にいえば、周囲の人間由来の感情的リソースに恵まれていたのだ。十分に尊重されてきたことで、私は自分を守ることに自分の神経を使わずに済んでいたわけだ。外付けの感情リソースを自尊に充てていた分、内部由来の感情リソースを建設的に活用できていた、ともいえる。 いっぽう周囲の人間からあまり尊重されてこなかった場合、自尊感情を維持するために自分の感情リソースを使う必要がある。自分を守ることに精一杯になるのだから、やる気や自信といった感情にはリソースを割くことができず、自分の置かれている状況そのものを改善するための努力ができなくなる。 何がいいたいかというと、ある人間の自尊心を問題にする前に、十分な外付けの感情リソースが担保されているかどうかを問題にするべきなのではないかということだ。代表的な外付けリソースの出所とされるのは、家族や恋人や友人であろう。しかし、こうした相手から自尊どころか呪詛や憎悪を向けられる場合も当然ある。周囲の人間から負の感情を流し込まれ続けると、自分の実存を守る為に感情リソースを総動員せざるを得ず、結果として無気力、自信の無さ、あるいは怒りっぽさや暴力性に繋がることも考えられる。

2025-08-27 複雑性への矢印~失望と再解釈の反復~

「他者への没頭は、それが支援であれ、妨害であれ、愛情であれ、憎悪であれ つまるところ自分から逃げる為の手段である」

推しは、単純化された他者を希求することで、想像力を麻痺させ、自分の想像力が自分に向かないようにする営みなのではないか。

人間のあらゆる営みは人間的なものである。営みそのものを否定するべきではない。けれど、推しという感情は過剰な単純性への志向をはらんでいる。そうした志向が身の回りとの関係性にまで波及して、他者理解を放棄し単純な関係だけを作り出すような社会に、わたしは生きたくない。

過剰な単純化と適度な単純化の間の線引きや、単純化と複雑化の境界は、それを語る者が設定するかぎり、恣意的なものにならざるを得ないのではないか、という問題がある。そこで、わたしは線引きを重視しないことにした。単純化と複雑化のどちらに矢印が向いているのかを認識するよう努め、議論の相手とその認識を共有できるか確認しながら、検討していく。 推しとはつまり、単純化を志向する大きな矢印なのだ。この矢印の勢いを緩やかにしつつ、それとは反対の、つまり複雑性に向いた大きな矢印を作り出すことが、わたしの目標だ。

単純化にはどのような問題があるのか。まずわたし自身が感じる素朴な実感について述べると、今日では、人間関係がぬるま湯至上主義的な傾向を帯びているように思えるのだ。相手の嫌なところには目を向けずにすむように、なんとなく居心地のいい関係に収束するように、情報の入力と出力を絞る。嫌なところは隠すというより、「なかったことになる」。不満や摩擦は表明せず、距離を広げることで調整する。

こうした人間関係はそれほど身近ではない相手との間に見られそうなものだが、実際はむしろ家族や恋人、親友との間にこそ見られる気がする。

妻にすら「こうあってほしい」「こういう人だと思ってた」といった単純化の矢印を向けそうになる。親には強くあってほしいと思って強くあたってしまうけれど、実際は親も自分より数十年長く生きただけの人間で強くはない。ところが「親も人間なんだ」という気づきは結構ショッキングなので直視しようとしなかったりする。 身近な人間に対する単純化の矢印を弱めて、複雑なあり方に目を向ける作業は、ある程度、人によってはかなり、苦しいものになるだろう。それでも、大切な人を見つめなおしてその複雑さを引き受けることができたなら、敏捷かつ柔軟な、より強靭な関係がそこに現れてくるんではないかと思う。 複雑性を志向する矢印を育てていく過程では、各時点でそれなりにネガティブな感情を抱く場面があるだろう。改めて相手のさまざまな性質を直視すると、失望や迷いが生まれるかもしれない。複雑性に目を向けようとする限り、ポジティブで安全で清潔な感情だけに浸り続けることはできないのだ。自分の中に生まれた負の感情を片付けようとせずに、熟読し、向き合う。相手と自分の歴史を回顧し、今の関係性を立体的に見つめ、失望を受け入れたうえで、それでも前向きに関わっていくことについて考える。ずっと分かっていると思っていた相手たちと改めて出会い、再び解釈する。 身近な人との間でこうした「失望と再解釈の反復」がダイナミックに行われれば、止まっていた大きな機械の歯車が再び回りだすように、関係性がゆっくりと動き出すのではないだろうか。人間の体が日々変化するように、人間どうしの関係も動的に揺らぎ続けるものだと思う。単純化はそうした時間的な揺らぎすら無かったことにしてしまうが、その揺らぎを再び受け入れる必要があるのだ。

ところで、身近な人同士の「失望と再解釈の反復」は、どちらかが一方的に行うことのできるものだろうか。それとも、両者が目を合わせて行う、いわば共同作業なのだろうか。 そのどちらでもある、とわたしには感じられる。長期的には、そうした動的なあり方を双方が認識し、話し合いながら努力する必要があるだろう。しかし、この作業が必ずしも二人で同時に開始されるべきかというと、そうでもないかもしれない。あなたが何かのきっかけで、身近な人への自分の認識に潜む単純性への志向に危機感を感じたとしたら、まず自分から、「失望と再解釈の反復」を一方的に行うことは可能だ。このようなかかわり方は、自分と相手の両方に対して、複雑な見方を諦めないという点で、誠実である。そのような誠実なかかわり方を続けることで、失望と再解釈のサイクルが相手にも鏡のように波及することは十分期待できる。もしも相手が応じてくれなくても、その「閉ざし」、つまり相手が勇気を出して複雑性に踏み込むという選択ができなかったこと、をあなたは誠実に解釈する。それ以上複雑性へと進むことはできないかもしれないが、それまでの歩みは無駄にはならない。

人間関係の強靭化は、「失望と再解釈の反復」の目的であるというより、副産物に過ぎない。そもそも、ある人間関係を「強靭だ」「脆弱だ」と評価すること自体が、強い単純化の矢印を帯びた行為である。一時的に関係がよいものになった(ように見えた)としても、その後大きな事件が起こって、あるいは何の前触れもなく、関係が崩壊してしまった、ということもあり得る。 「失望と再解釈の反復」の最大の効用はおそらく、自分自身の複雑性を突き付けられることにある。他者の複雑性に向き合うとき、自分が他者をどのように単純化してきたのか、どういう相手を望んでいたのか、といった現実にも向き合う必要がある。そんなとき、あなたが本当に向き合うことになるのは、他者ではなく自分自身なのだ。相手への失望と再解釈は、自分への失望と再解釈でもあるといえる。

人は自分が何者なのかを知りたがることがある。世界とかかわる中で自分がどういう存在なのかを察し取り、自己同一性を構築しようとする。 しかし、自分だけで自分を解釈しようとすると、単純化された自己認識が形成される。難波優輝(2025)は、「自己語り」を歴史学者による「歴史的語り」と比較した上で、その問題点を「改訂排除性」と「目的閉塞性」という二つの語句によって説明している。

難波によれば「歴史的語りは、複数の語り手によって常に批判可能である」(p. 30)のに対し、「自己語りは、他人からの事実確認も訂正も乏しい状況で行っている。結果として、私たちは容易に歪んだ自画像を再生産してしまう」(p. 31)という。これが自己語りの「改訂排除性」である。 また難波は、自己語りが目的論的な説明、物語的な語りの形式をとることを指摘している。難波によれば、物語では、「行為者(主人公)は達成すべき最上位の「ゴール」を持ち、それに向けて複数の下位目標・計画の実施を試みる。たとえ障害や困難が生じても、別のルートで、目指していたゴール達成を目指す」(p. 35)。そして自己語りにおいても、人は自分の人生に「事実上存在しない必然性や運命的な「伏線」を見出そうとする」(p. 35)という。これが、難波が「目的閉塞性」と呼ぶ自己語りの問題点である。

自己語りが改定排除的で目的閉塞的であるのに対して、他者に対する「失望と再解釈の反復」を通じた自己理解は、改訂の可能性や目的からの独立性を確保できると考えられる。他者への失望は自己への失望を同時に引き起こし、自己理解は改訂を余儀なくされる。また他者の見つめなおしによって引き起こされる自己認識の変更は、自己のあり方を特定のゴールに導こうとして行われるものではないから、目的閉塞性からは分離されている。

参考文献 難波優輝(2025).『物語化批判の哲学–<わたしの人生>を遊びなおすために』.講談社.

推しの対象は多面性や複雑性を排除され、物語化される。一見相反するような性質を併せ持つ人の複雑さも、「ギャップ」として定式化され、単純性に吸収されてしまう。

先日、「(作品名思い出しておく、漫画)」という漫画を書店で見かけた。恋愛漫画におけるカップルの組み合わせで強調される人間の性質としては、とても一般的とはいえそうにない。 こうした「ニッチ」「マニアック」ともとれる独自の設定が探求される背景に、作者が自分の生み出すキャラクターを、あるいは自分自身を、典型として解釈されることから逃れさせたいと感じていることがあるのではないだろうか。

動物の動画をえんえんと見る人がいる。推しに金を貢ぐ人はいるが、癒し系の動物動画を見る分にはあまり金がかからない。生活の破綻をもたらすような弊害はなさそうだ。 しかし、精神的に安全で清潔な動物の姿を見続けることも、やはり想像力の麻痺に一役買っている気がする。動物や、動画の投稿者がそれを意図しているのではなく、動画を視聴する人が、あなたが、それを求めている。

スマートフォンを継続的に使用していれば注意が散漫になり、余計なことを考えなくてすむ。そういう時にはドーパミンが放出されて、快楽を感じられるようになっている。こうしたことは言われてきた。

推しに対する感情にも、そうした側面があるように思える。あるいは「恋は盲目」と揶揄されるような種類の恋愛感情も。相手にのめりこみ、信仰ともいえるような形で没頭するとき、相手の人間的な複雑さには目がいかず、単純化された「神」「天使」だけが見えるようになる。自分の作り上げた虚構の理想像が投影されていると言ってもいい。

推しという営みは、そうした「企図された盲目」のようなあり方に自覚的であるようにも思える。「推しと付き合いたいわけではない」「推しとは距離をとりたい」という人がいるが、それは「推しの複雑性やぶれを見たくない」「推しの嫌なところを見て幻滅したくない」ことを、それ自体をすら直視せずに表明することなのかもしれない。

人と人との関わりは複雑で、構成要素に名前を付けたとしても理解しきれない部分がある。夫婦の関係性は愛だけでは言い表せない。友人の関係性は友情だけでは説明しきれない。社会で一般的に名付けられる関係性と自分たちの関係性を比較して、似ているから便宜的に同じ名前を付けているだけなのだ。 「あんたとは友達だから、こんなことできない」とか、「恋人同士なんだからこんなことできない」といった発話は転倒しているのかもしれない。本当は、「あんたとは生理的にこういうことできない!あたしたち、やっぱり友達なんじゃない!?」とか「友達だと思ってたけど、あんたが他の子と一緒にいるのは嫌なの !世界はこれを愛と呼ぶんだぜ!!」みたいな順番が正しいのではないだろうか。

2025-08-08 久住祭 -夜通

妻の故郷の、小さな田舎町の祭りに来た。よそ者の私も法被を羽織って笛を吹き、時には鳴り物を担いで、赤い提灯にぼんやりと照らされた夜の市中を練り歩く。囃子方の後方を歩いて突然、景色の美しさにはっと気がついた。思わず写真を撮ってインスタグラムで共有しそうになったが辞めた。この幸せな時間を、贅沢な経験を、人には見せずにしまっておこう。

囃子方は私以外の全員が、この街の誰かの家族であり知り合いである。空き地や店の駐車場に太鼓や鐘を置いて休憩するとき、わたしは一人になる。妻は友達と話す。妻の父や妹も、それぞれの友達と話す。知らないおいちゃんは知らないおいちゃんと話し、女の子は女の子と話している。わたしはその賑やかな空間の端に座って、キューバのことを思い出す。誰もが友人との会話をえんえんと楽しむ、夜の野外の集まり。ハバナでは夜になっても、街角で談笑する若者や、集合住宅の前の通りで正方形のテーブルに座ってドミノに興じる老人がいた。そんな空間が立ち現れる機会は、日本にはあまりなさそう。祭りは、夜の通りに人を呼び出す特殊で貴重な機会だ。久住祭りの夜通でもキューバの夜の通りでも、私はどの輪にも入らないがそれは疎外ではなくて、違う国に来たということをただ味わう。

2024-04-25 蔦屋珈琲店

火曜日の昼下がり、蔦屋に行ったら、棚の間に人がいない。辺りを見渡しながら歩き回っていると、ときどき、平積みの雑誌をじっと見つめる中年の女性や、小説の棚の前をゆっくりと蟹のように横移動する学生に出会うのだが、棚の間には本当に人がおらず、広い店内は閑散としている。奥に目をやると、スタバが人であふれていた。学生、淑女の集団、中年夫婦、ご老人など、ゆうに三十人はいる。コーヒーか、甘くておいしい飲み物の入った紙コップを脇に置いて、コンピュータでの作業や友人との談笑を続ける。本を読んでいるのは一組の老夫婦だけで、地域情報誌を二人で黙々と眺めていた。人魚の笑う深緑の看板に続く棚の間の通路には、やはり誰もいない。 これは、と思う。蔦屋書店の建屋にスターバックス・コーヒーが入っているというより、スターバックス・コーヒーの店舗にたくさんの本と本棚を置いて、その管理を蔦屋書店に任せているみたいじゃないか。

2024-04-16 皮膚科の少女

皮膚科の小さな待合室で、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」が流れるスピーカーの目の前に背を向けて座り、クライマックスへと上昇してゆく管弦とティンパニを両耳に流し込んでいたところ、六、七歳とみえる少女が自動ドアをくぐってすたすたと受付に歩いてきた。可憐さとたくましさを兼ね備えた、健康的な少女である。職員さんが名簿に名前を書くように促すと、少女は職員さんの目をまっすぐに見て「漢字ですか、ひらがなですか」としっかりした口調で尋ねた。職員さんは「どちらでも」と答えて、微笑んだ。 いつのまにかファウストの劫罰は終わり、次の曲が流れ始めていた。

2024-02-18 念のため、ができない規模

地球環境に関する大規模な問題の議論において、楽観派と悲観派の対立を見る場面は多い。地球温暖化は現に起きている、いや起きていない。人間の活動が影響している、いやしていない。正直私の意見は「そんなもの分かるわけねえだろう」というもので、では対策は不要かというとそんな訳もなく、推し進めたいのは【念の為行動】である。心配だから念の為、という動機での対策は個人の家なら許される。会社でもまぁ許される。地球規模、国際規模となるともう不可能である。経済と政治が追いついてこれない領域にあるのだ、念の為という態度は。つまり多次元的な世界の統合とは糞であり、我々は自分の暮らす敷地の環境についてしか真剣に考えることはできないのである。「地球を守ろう」も「気候変動はウソである」も胡散臭いのは、こういった本来思考可能な面積を大きく逸脱した傲慢で広範な議論を無批判に押し付けようとするからである。

2024-01-11 呼び方がなにか奪うとき

高校生のとき、友人と他のクラスの生徒についての話をしていた際に、ある名前を出すと「あぁ、韓国人ね」と返ってきて、すさまじい衝撃を受けた覚えがある。それは何の悪意も纏わない、単なる叙述だった。「あぁ、野球部ね」「あぁ、転校生ね」といった具合に。友人はその生徒と仲が良かったし、韓国のことを悪く思っているわけでもなかった。動揺しつつ「あ、そうなん」と応えると、「見るからにそうやん。」あ、外見で分かるのか。確かにテレビで見かけた韓国アイドルに似て、切れ長の目をしている。きれいな目だと思う。いやしかし…

韓国人という呼び方自体が、私にはかなり暴力的に聞こえた。中国人と言っても同じだ。しかしアメリカ人というと、そうでもない。キューバ人といえば、キューバ音楽が好きな私にとっては「先生」のような敬意のこもった言葉になる。高校二年生の私はインターネットで嫌中嫌韓の言説に初めて触れて、途方もない悪意の存在を知ったばかりで、この二国に対する直接的な投げかけ全てに棘を読み取ってしまうきらいがあった。しかし今でもやはり「韓国人は〇〇」などと言われると、息の詰まる感じがする。「キューバ人は腰が違う」なんて平気で言うのに(ダンスの話です)。

別のある友人は、韓国人を嫌っていた。それを知ったのは前述の件より後だったので、二人が同じ空間にいて大丈夫だろうか、などと心配したがまったくの杞憂で、韓国人を嫌う彼と韓国人の彼は廊下でふつうに話していた。何なら校外でも遊んでいた。

私は少し苛立ってきた。何なんだ「〇〇人」って。〇〇人を嫌うあんたも、渡来人か何かの祖先がいて実は〇〇人かもしれないじゃないか。そもそも〇〇人が何人いると思っているんだ。〇〇人という途方もなく巨大な集団の構成員全てに、無差別に何らかの性質を付与して、憎む嫌う避けるなんて所業、よくできるよな。意味わかんない。

固有性の掠奪。メガネ。のっぽ。ロン毛。イケメン。韓国人。その個人の、その個人だけがもつ固有のものを、奪い去ってしまう。その奪い去られ方をどの程度感じるかは、おそらく人によって違う。友人がイケメンと呼ばれているときにさえ、この掠奪を大真面目に感じ、少し心が痛むのは、私だけだろうか(私だけかもしれない)。